【沖縄】ひめゆりの塔

ひめゆり平和祈念資料館にある、ひめゆりの塔です。

ひめゆりの塔
ひめゆりの塔 posted by (C)はな

第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸し、熾烈な地上戦が展開されました。
そんな中、当時沖縄にあった21の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られたのです。
女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたりました。
男子学徒は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」(物資輸送・橋の補修等)に、
下級生は「逓信隊」(電線の修復・電報の配達等)に編成されました。

当時、真和志村安里(現在の那覇市安里)にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、
生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で
命を落としたのです。両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。

ひめゆりの塔
ひめゆりの塔 posted by (C)はな

生徒たちが動員された沖縄陸軍病院は、那覇市の南東5キロ、南風原に位置したなだらかな丘にありました。
丘の斜面に横穴が40近くも掘られ、むき出しの土壁に沿って粗末な二段ベッドがあるだけの施設が陸軍病院の病棟でした。
生徒たちは各壕に分かれて働くことになりました。4月1日、米軍が沖縄本島に上陸すると、前線から負傷兵が
次々と送られてくるようになりました。負傷兵は増えつづけ、生徒たちは寝る間もほとんどないまま、
昼も夜も働き続けることになりました。

病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。
負傷兵の看護のほかに、水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬なども生徒たちの仕事でした。
それらの仕事は弾の飛び交う壕の外に出て行かなければならない、とても危険な任務でした。
 陸軍病院に動員されると聞いたとき、生徒たちは弾の飛んでこない、赤十字の旗が立てられた病棟で
看護活動をするものだと思っていました。しかし現実は、前線同様、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場でした。

ひめゆりの塔
ひめゆりの塔 posted by (C)はな

現在「ひめゆりの塔」が建っているガマは、陸軍病院第三外科が撤退後に入っていた壕で、
「伊原第三外科壕」と呼ばれています。ここには、ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、通信兵、
住民などおよそ100名がいました。解散命令後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、
80名あまりが亡くなりました。

当時、投降して米軍の捕虜になるということは、日本国民としての恥でした。
軍だけを頼りにここまでやってきたのに、その軍から解散命令を出され、かといって行く場所もなく、
投降すれば米軍にレイプされて殺されると教えられていた彼女たちの多くはここで命を失ったのです。

戦争は二度とやってはいけないこと。
同じ人間同士が殺しあうことに、いったい何の意味があるのでしょうか。
地球規模、宇宙規模で考えたら、人間なんてちっぽけなものです。
やがていつかは寿命が来る。それなのに、先走って命を落とすことはないのです。

亡くなられた学徒隊のご冥福を心から願ってやみません。

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